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「お粥」といえば皆さんはどんなものを思い浮かべますか?トロリとした白いお粥でしょうか、それともとり肉・豆などが入った中華粥?食べものを手に入れることが難しかった戦前戦後世代はお米よりもイモや大根などが多く入った雑炊のようなものを想像するかもしれませんね。
日本で稲作が始められたころ主食はご飯ではなくお粥だったようです。白いご飯を私たちみんなが食べるようになったのは歴史上ではつい最近のことです。
お米の食べ方の変遷を見てみると、古代の日本人はお米を籾がついたまま焼いたり、鍋のようなもので煎ったりして食べていたようです。
その後時代が進むと、お米を蒸して食べる「強飯(おこわ)」が登場します。強飯にして食べる時代が長く続くうちに調理法はさらに進化し、お米を煮て食べる方法が考え出されました。お粥は固さにしたがい「固粥(かたがゆ)」と「汁粥(しるがゆ)」に分けられさらに固粥は「飯(めし)」または「姫飯(ひめいい)」と呼ばれるようになりました。姫飯は今日私たちが毎日食べているご飯と同じようなものではないかと言われています。
平安時代を見てみましょう。このころのお米の主な調理法はお粥で、平安の人々は「粟粥(くりがゆ)」・「小豆粥(あずきがゆ)」・「イモ粥(いもがゆ)」など色々な野菜を混ぜて炊いたお粥を食べていたことが資料に残っています。お正月に食べることでなじみ深い「七草粥(ななくさがゆ)」も同じ頃中国から伝わったのではないかと言われています。
江戸時代に入ると度々冷害などによる飢饉がおこり食糧不足に苦しむようになりました。お粥は飢えに苦しむ人々を救うために幕府が配給する食糧になり、江戸時代後期にはお米の節約方法としてお粥という調理法が広められました。
その後、戦前戦後の食糧が大変不足していた時も、江戸時代の飢饉の時と同じように粟・稗(ひえ)・イモ・野菜をたくさん混ぜたお粥が食べられてきました。
お粥はお米の調理法の発達とともに登場し、時代の要求に合わせて色々な形で私たちの生活とともに歩んできたのです。
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